上の写真は、島根県安来市に流れる飯梨川。

 

大国魂神の概略

 

大国魂神 (おおくにたまのかみ)は、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社の祭神であり、「日本大国魂大神」「倭大国魂大神」(やまとおおくにたまのかみ」とも呼ばれている。そして、日本の大地主神とされている。

 

現在の大和神社は、本殿3殿並立になっており、祭神は以下のとおりである。

 

中殿:日本大国魂大神
左殿:八千戈大神
右殿:御年大神

 

現在の祭神から、古代を類推するには無理があると思うが(祭神は時代のよってすり替わるものだから)が、主祭神は、延喜式神名帳(927年)に「大和坐大国魂神社」とあり、神社創建以来変化はないように思われる。
左殿に、八千戈大神が祀られており、祭神の名前が「大国主命」と似ているので、「大国魂命は大国主命」と考えられがちである。さらにそれは、大国主命の「荒魂」を祀っているともされている。

 

しかし、それは記紀に書かれた国譲り神話が後代に定着したせいなのか、三輪山の大神神社の社家の氏族の力が強まったせいなのか原因はわからないが、元々は違う神だったのではないか。

 

結論から言うと、「大国魂命は、火明命」であると思う。
こう書くと、原田常治説の「大国魂命はニギハヤヒ」説と一緒のように思われるが、火明命と饒速日命は同神と『先代旧事本紀』にあるものの、少なくとも古代豪族尾張氏は、始祖火明命で、物部氏は始祖饒速日命と別個の始祖を語っているので、別個の神として考えないといけないと思われる。

 

 

古くからある大国主命の荒魂説

 

『大倭神社註進状並率川神社記』を読むと、大国魂神は、大己貴命の荒魂であるということが書かれており、平安時代の末期にはすでに神社としてもそういう認識であったと思われる。
「大倭神社注進状」は、1167年に大倭神社の祝部大倭直 歳繁が国司に提出した書状である。

 

三輪叢書 国立国図書館デジタルコレクション 162P

 

これを読むと、大倭神社は、「出雲の杵築大社の別宮」などと書いてある。あわせて狭井神社も大倭神社の別宮と書かれている。

 

このときの3祭神の構成にならって、現在も同じ神を祀っている格好だ。

 

平安時代の末期がそうであるならば、それで正しいように思えるが、
『日本書紀』(720年)や『出雲国風土記』(733年)の記述を読むと、とても大己貴命には思われない。

 

 

『日本書紀』『古事記』の記載

 

『日本書紀』崇神紀・垂仁紀

 

崇神天皇の時代の倭大国魂神社の創始の記事である。

 

これより先、天照大神・倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった、そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(ひもろぎ)(神の降臨される場所)を造った。また、日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。 (『日本書紀(上)全現代語訳』 宇治谷 猛 講談社学術文庫)

※渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみことあ)は、妃 尾張大海媛(おわりおおしあまひめ)の娘

 

ここが天照大御神が、伊勢神宮に鎮まるまで長い遷座の旅に出る発端の事件である。
ここだけ読むと、国譲り神話の流れから、大国魂神は、やっぱり大国主命じゃないかと思われるんじゃないかと思う。
その後である。

 

「昨夜夢をみましたが、一人の貴人があって、教えていわれるのに、『大田田根子命(おおたたねこのみこと)を、大物主神を祀る祭主とし、また市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭主とすれば、必ず天下は平らぐだろう』といわれました」という。(『日本書紀(上)全現代語訳』 宇治谷 猛 講談社学術文庫)

 

ここでは夢告の話が出てきて、大物主神の祭主に直系の子孫の大田田根子を探し出し、祭主にする話が記述される。
ここは大神神社と大和神社の創始がセットで語られているわけで、ここの記載に市磯長尾市が倭大国魂神の子孫である記述はないものの、子孫と考える方が自然である。
もし、倭大国魂神が大己貴命の荒魂ならば、天穂日命の関連の氏族か、大田田根子関連の氏族が登場すべきである。

 

では市磯長尾市は、どういう氏族か?

 

垂仁天皇の記事でまた登場する。
アメノヒボコの渡来のところで、「三輪君の祖の大友主と、倭直(やまとあたい)の長尾市」と、これまたセットで大田田根子の子どもと共に登場する。

 

倭直の氏族ということである。

 

『新撰姓氏録』で調べると、倭直は記載ないが、大和宿祢の説明に書かれてある。

 

大和国 神別 地祇 大和宿祢 宿祢 出自神知津彦命也神日本磐余彦天皇。従日向地向大倭洲。到速吸門時。有漁人乗艇而至。天皇問曰。汝誰也。対曰。臣是国神。名宇豆彦。聞天神子来。故以奉迎。即牽納皇船。以為海導。仍号神知津彦。[一名椎根津彦。]能宣軍機之策。天皇嘉之。任大倭国造。是大倭直始祖也

 

神武天皇が東征した時、国つ神である宇豆彦(亦の名、神知津彦、椎根津彦)が、出迎え、大和まで導いてくれた神が先祖であり、大倭国造を任され、「大倭直の始祖なり」と書かれている。

 

大和の国造が、国つ神(地祇)なのか?と疑問をもつ人も多いと思うがそうなっている。ただ、これは神武天皇との対比で、陰陽の原理から、国つ神になっていると思われる。

 

『古事記』の大国魂神

 

大和神社の右殿に御年(みとし)大神で祀っているのは、『古事記』に書かれてことが原因だと思われる。

 

大国魂神は、須佐之男命の子である大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた神となっている。
ただし、御年神(みとしかみ)は、香用比売(かぐよひめ)との間の子であり、大香山戸臣神(おほかぐやまとみ)と兄弟であり、大国魂神とは別の神となっている。

 

つまり、大国魂神は、大歳(年)神そのものではなく、その子どもであり、須佐之男命の孫という設定になっている。

 

火明命は、倭国造の祖 (海部氏勘注系図)

 

大和の国造の祖が、宇豆彦(亦の名、神知津彦、椎根津彦)であることがわかった。しかし、それが大和の地主神と思えない。
その先の先祖が誰かを調べていくと、火明命ということになる。

 

京都市宮津市の籠(この)神社の社家に伝わる『海部氏勘注系図』によれば、始祖彦火明命の3世孫に、倭宿禰
が系譜に含まれている。

 

始祖 彦火明 ─ 天香語山命 ─ 天村雲命 ─ 倭宿禰命

 

この系図には、出雲族と海部氏の近縁関係が述べられている。
詳しくは、火明命と出雲族

 

海部氏の系図だけではなく、『先代旧事本紀』にも、倭国造の系譜が、同様に語られている。

 

巻第六 皇孫本紀 

(火居の尊の御子として)彦波瀲武鸕鷀草葺不合の尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)がお生まれになった。次に、武位起の命(たけくらいおきのみこと)がお生まれになった。大和の国造たちの先祖である。(『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典【監修】志村裕子【訳】 批評社)

 

『新撰姓氏録』では、地祇(国つ神)であるが、天孫の扱いである。しかし、神武天皇の東征の項ではまた別の表現がされている。
なお、海部氏勘注系図では、さきに記した系譜とは別の所に、彦火明命 ─ 彦火火出見命 ─ 建位起命とも、彦火明命 ─ 建位起命 ─ 宇豆彦命 とも書かれている。

 

「お前は何者か」とお尋ねになると、「私は国つ神(地元の神)で名を珍彦(うずひこ)と申します、曲浦(わだのうら)で釣りをしておりますと、天つ神の御子がいらっしゃると伺いまして、お迎えに参上しました」と言う。
天孫は、さらにお尋ねになった。「私を案内してくれるのか」と仰せられたので、珍彦は、「ご案内いたしましょう」とお答えした。そこで、天孫は漁師(あま)に命じて、椎竿(しいさお)(船の櫂)の先を差し出してつかまらせ、船の中に引き入れ案内者とされた。そして特に椎根津彦(しいねつひこ)という名を授けた。これはすなわち倭(大和)の直部(国造で部民統率者)の始祖である。(『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典【監修】志村裕子【訳】 批評社)

 

巻第十 国造本紀

椎根津彦(神武天皇の祖父の後裔か)を大倭(やまと)(大和。奈良県中央部)の国造(郡ほどの地域の地方官)に委任された。大和の直(あたい)(大化以前の姓の一つで国造や部民統率者)の先祖である。(『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典【監修】志村裕子【訳】 批評社)

 

『出雲国風土記』の大国魂神

 

なぜだか、大国魂神は『出雲国風土記』(733年)にも登場する。大国主命の治める国だから、登場して当然と思われるかもしれないが、『出雲国風土記』には、大国主命は「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持命(おおなむち)」あるいは、「所造天下大明神命(あめのしたつくらししおおかみ)」と記述されており、全て「所造天下大明神命」の称号がついているのにもかかわらず、大国魂神にはその称号がない。

 

また、大国魂神は「天から降って来た」ということが書かれており、在地の神とは考えられない。

 

『出雲国風土記』の意宇郡飯梨郷の記事であるが、ここに意陀支社(おたきのやしろ)が鎮座していると考えられ、合わせて考えると大変悩ませられる記述である。

 

意陀支神社 拝殿  祭神 大国魂 島根県安来市飯生(いなり)町679

 

 

飯梨郷(いいなしのさと)

 

〝郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故に飯成(いいなし)と云う。【神亀三年(西暦726年)に字を飯梨と改む。】〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

「意陀支(おたき)」というと京都の愛宕郡(おたぎぐん)との関連も考えられ、飯成つまり稲荷(いなり)という穀物神が彷彿される。京都の泰氏も関連していないのか、あるいは大歳神と宇迦之御魂神が奈良時代にすでに習合していたのかなどと考えさせられる。

 

そして、大和神社と出雲国との関係だが、出雲国には、大和神社の神戸(かんべ)があった。

 

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によれば、

大和神 三百廿七戸 勝宝元-十一月十四日奉レ充三百戸廿七戸不レ見奉レ充年 大和廿戸 十戸 神護元-奉レ充 尾張七戸 常陸百戸 出雲五十戸 武蔵五十戸 安芸百戸

 

出雲国のどこにあったか定かではないが、飯梨郷にあったと考えるのが自然である。

 

 

まとめ

 

1、大和神社の祭神 大国魂神は、古くから、大己貴命の荒魂として考えられてきた。

 

2、しかし、元々は大己貴命の荒魂ではなく、大和国造・倭直の祖 火明命ではないかと思われる。

 

3、大国魂神は、国つ神(地祇)の神とされたが、本来は天津神で、大和の地主神にされたと思われる。

 

大己貴命・事代主命などの出雲族の神々との結合で、特定氏族の神の名前、火明命とはしなかったのかもしれない。

 

 

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