日本の民俗学の祖ともいうべき柳田国男(1875年~ 1962年)氏の『石神問答』(1910年)には、「くなどの神」と同じような信仰もつ様々な石神の性格が述べられています。

 

平安時代の式内社における佐久(さく)の名前がついた神社がありますが、この本の中で、柳田氏は、「佐久」も「くなど」も同じ意味であると書かれています。

 

 

『石神問答』とは?

 

柳田国男の著書で、明治43年( 1910年)に出版された本です。昭和16年(1941年に序文をつけて、再刊されました。

 

日本にみられる各種の石神 についての考察を,柳田氏と他の民俗研究者である山中笑(やまなか えむ)氏,伊能嘉矩(いのう かのり)氏,白鳥庫吉(しらとり くらきち)氏,喜田貞吉(きた さだきち)氏たちとかわした手紙をもとに一冊の本にまとめたものです。

 

シャグジとはどういう神かということを出発点として、類似した石神である道祖神や、門客神やアラハバキ神、十三塚、象頭神などのエッセンスが散りばめられた興味深い本です。

 

 

「佐久」のつく式内社がある。

 

ここから、具体的に、『石神問答』の内容を見ていきます。

 

しゃくじ神(みしゃくじ神)は、石神(しゃくじん)から転化して「しゃくじ」と呼ばれるようになったという通説は、違うのではないということを柳田氏は説明していきます。

 

この話のくだりで「佐久」(さく)のついた神社が登場します。石神がしゃくじではないという話も合わせ読んでみてください。

 

更にずっと古いものを探してみますと、石神の社は延喜式の神名帳にも数座あるようでございます。いわゆる

 

河内高安郡(註:大阪府)石神社

 

伊勢鈴鹿郡(註:三重県)石神社

 

同員辨(いなべ)郡石神社

 

陸奥黒川郡(註:福島県)石神山精神社

 

同桃生郡(註:宮城県)石神社

 

同膽澤郡(註:岩手県)磐神社

 

能登能登郡(註:石川県)宿那彦神像石神社

 

同羽咋郡大穴持像石神社

 

などであります。しかしながらこれと同時に

 

甲斐八代郡(註:山梨県)佐久神社

 

但馬氣多郡(註:兵庫県)佐久神社

 

出雲意宇郡(註:島根県)佐久佐神社

 

同 同   佐久多神社

 

近江栗太栗太郡(註:滋賀県)佐久奈度神社

 

などの神々もございます。

 

 

この時代には、石神は音読はせずにイワガミまたはイシガミと呼ぶことは色々と証拠がございます。

 

金葉集(註:金葉和歌集。平安時代後期に編纂された勅撰和歌集。全十巻)第八集、恋の巻・下巻より石恋『逢うことを問ういしがみのつれなさに我が心のみ動きぬるかな』(註:意味、恋しい人と会わないのか?と聞いて来るいしがみの冷淡ぶりに、私の心だけは動かない石と違って激しく動揺している)というのが見られるのです。(柳田國男著『石神問答』大和青史訳 Kindle 版)

出雲の佐久佐神社

 

出雲国の佐久佐神社神社は、2つの比定社があります。ひとつは観光で有名な八重垣神社(やえがきじんじゃ)で、もう一つが六所神社(ろくしょじんじゃ)です。

 

『出雲国風土記』(733年)では、素盞鳴尊の御子・青幡佐久佐丁壮命(あおはたさくさひこのみこと)が鎮座して、大草郷(おおくさごう)という地名になったことが書かれています。

 

つまり神名の一部の「佐久佐」から神社名になっていると思われます。(その逆の神社名から神名が生まれことも考えられます。)

 

比定社とは?

 

『延喜式神名帳』(927年)に記載された神社(式内社と云う)と、現代のどの神社が同一あるいはその後裔と推定される神社を比定社(ひていしゃ)あるいは論社(ろんしゃ)と呼びます。

 

六所神社 本殿  島根県松江市大草町496

 

 

六所神社は、出雲国府(国庁)跡に隣接した場所にある神社で、 国府の総社とも呼ばれています。

 

八重垣神社は、出雲大社の社家の一つでもある佐草氏が、宮司家の神社です。

 

八重垣神社 島根県松江市佐草町227

 

 

 

出雲の佐久多神社

 

出雲国の式内社の佐久多神社は、2つの比定神社があり、そのひとつが広瀬町の嘉羅久利神社です。もう一つが、宍道町の佐久多神社です。出雲国風土記には、官社として2社載っているので、両方とも佐久多社だったと思われます。

 

延喜式には、「佐久多神社 同社坐韓国伊太弖神社」と書かれており、韓国伊太弖(からくにいたて)から嘉羅久利(からくり)になったのかもしれません。

 

嘉羅久利神社 島根県安来市広瀬町広瀬364 
近くに富田八幡宮があります。

 

 

佐久奈度神は、瀬織津姫ではない

 

式の佐久神の中でも、近江栗太郡(註:滋賀県)の佐久奈度神は、特に注意すべき事であります。地元誌には勢多川鹿飛のほとりにある櫻谷神社をこれに当てはめているのは、間違いでは無いと存じます。

 

ただ、祭神を瀬織津姫(註:延喜式の『六月晦大祓の祝詞』に記されている。もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す女神)であると言うのは、考えますに大秡詞の「さくなだりに落つ早川の湍に座す神」(註:さくなだり=栄く傾り、で水が勢い良く落下する様子、「落瀧つ」とは「落ち滾つ」で水が高い所から流れ落ちた後に激しくあわ立つ様で、その早川の速い流れの中にいらっしゃる神様)から出た推測説であると思われます。

 

この地は東国から南山城(註:京都府にあるが奈良県、滋賀県、三重県に接している)に入り込んでいる天然の小道であり、昔は大石の堰もあった場所だったので、佐久奈度はやはり、クナドの神でございます。

 

それならば、頭の字の佐は何かと申しますと、サクとクナドとこの二つの同義語を重ねたものと考えております。(柳田國男著『石神問答』大和青史訳 Kindle 版)

 

佐久の地名

 

島根県松江市宍道町の佐久多神社は、佐倉という地名の場所にあります。

 

古名は、佐久良(さくら)だったようです。

 

佐久多神社  島根県松江市宍道町上来待551
江戸初期までは佐久多神社あるいは佐久多大明神と呼ばれていました。

 

 

佐久と呼ぶ地名は信濃の佐久那を始め、全国にございます。尾張の海上に佐久の島、下野(註:今の栃木県)の那須村に佐久山もございます。また、安房その他に佐久間と呼ぶ地名も、その言葉の意味は今もって不明でございますが、たぶん佐久神と同源かと考えております。

 

日本語で遠ざくる(註:遠ざける)、のサクでありと申せましょう。現代のアイヌ語でも、サクは隔絶の意味であったかと存じます。

 

恐らくは、古代の原住民、すなわちいわゆる荒ぶる神と、新たに平野に住居を占有した我々の祖先とを、隔絶する為に設けた一種の隘勇線(註:先住民の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるもの)であるのだろうと考えておりますが、ご意見はいかがなものか承りたくございます。

 

ちかごろは新編相模国風土記稿(註:江戸時代に編纂された地誌、全126巻。相模=神奈川県)を調べておりますが、この地方では石神が多く、社宮神または佐護神は少なく、かつこの二種類が並存しているという村が一つもない事を発見致しました。

 

そうであるならば、近世になってから石神とシャクジを同じ神としたことは疑いがございません。

 

ただ、最初からこの二つの神が同一のものだった、とはいまだに信じられない事であるばかりか、少なくともシャグジの名前の意味は石の神に由来していない事は、延喜式がその証拠であると考えております。

 

あるいは、式の佐久神は今のシャグジではないとも言えますが、現にあなたの地域の三保の松原にあるシャグジなどは、新風土記には佐久神と記されております。

 

道祖神石を祀る風習は、甲州に限らず、全国にもある様に存じております。(柳田國男著『石神問答』大和青史訳 Kindle 版)

 

原書の本は、明治に書かれたもので今読むと難解です。『大和青史 現代語訳 Kindle 版』から引用しました。
たいへんわかりやすい現代語訳です。 詳しくは ↓

 

 

 

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