この記事は、私の想像による仮説記事です。出雲大社の背後の山々─出雲御埼山(現在は北山という。出雲大社の背後の山は八雲山)には、元々鎮座していたのは、伊勢津彦命であったのではないかという想像です。
鰐淵寺(がくえんじ)は、594年に信濃国からやってきた智春上人(ちしゅんしょうにん)が開創した寺と伝えられています。なぜに、信濃國(今の長野県)からわざわざ出雲国の出雲御崎山なのでしょうか。信濃國に縁のある神が祀られている場所だったからではないかという仮説です。
鰐淵寺 島根県出雲市別所町148

鰐淵寺の名前の起源
いつまでさかのぼれる古代の寺か
鰐淵寺は、推古天皇の勅願により推古2年(594)に開創されたということになっています。推古天皇といえば、古墳時代後期の飛鳥時代です。仏教が日本に伝わり奈良でお寺が次々に築造された時代です。
その頃、出雲国でも寺ができたのか不思議な感じがします。なぜだか奈良時代の『出雲国風土記』には、鰐淵寺と同じく智春上人が開祖の万福寺(大寺薬師)も載っていません。
平安時代末期には、全国的にも有名な修験道の霊地となりましたが、考古学的には、開創時期がいつまでさかのぼれるかわかっていません。
しかし、鰐淵寺には、白鳳期の銅造観世音菩薩像が保管されています。その台座に「壬辰年五月、出雲国若倭部臣徳太理為父母作奉菩提」と刻まれています。持統天皇6年(692年)に造られたもののようです。
浮浪の滝
智春上人が浮浪の滝のほとりで修業をしていた時、誤って椀(まり)の仏器を滝壺に落とし、困っていた時、突然大きな鰐(わに)が鰓(えら)に仏器をひっかけて浮かび上がり、智春上人にささげたことから、寺の名前が生まれました。
浮浪の滝と蔵王堂

和珥(ワニ)系氏族
先に述べた若倭部臣(わかやまとは、出雲郡の有力氏族です。出雲国風土記時代の出雲郡の郡司(主帳)の一人です。
その「若倭部」ですが、第9代開化天皇(若倭根子)の名に因んで設置されたとされています。
鰐淵寺のちょうど南の鼻高山麓の青木遺跡木簡にも若倭部臣の名が見えます。
また、その周辺には日下部氏由来の神社が複数あります。(久佐加神社や来阪神社)
日下部氏は、開化天皇の御子である彦坐王(ひこいますのおう)に由来する氏族とも言われています。
若倭部氏も日下部氏も開化天皇に由来する氏族で、いわゆる和珥(わに)王朝につながる氏族です。
鰐と関係があるのかないのか証明することはできませんが、鰐淵寺の周りに和珥系氏族が分布しているのが興味深いです。
智春上人を導いた三翁
伝承では、智春上人(ちしゅんしょうにん)が信濃国より来た時、三人の老翁が船で出迎えました。そして、三人の翁は、三所へ飛び去って、石になったと伝えられています。その三人の翁とはどなたでしょうか。
『雲陽誌』(1717年)にも、詳しく書かれています。
初舟さし来し三人の翁のいへるは共に力を得て永世法を守へしと約て飛去ぬ、今唐川村の智尾権現別所村の白瀧権現國留村の旅伏権現なり、乘給へる舟の形もみな石となり、智尾権現本社の前の岩船白瀧権現の社後檣(かち)石旅伏権現のほとり帆席石といふ是なり、
『雲陽誌』
※檣は、船の帆を張るための柱。
この三翁をまとめると、()内は石の名前です
唐川村の智尾権現【岩船】 ・・・ 現在の韓竈神社(からかまじんじゃ)
別所村の白瀧権現【檣(かち)石=帆柱石】 ・・・ 現在の諏訪神社(すわじんじゃ)
國留村の旅伏権現【帆席石】 ・・・ 現在の都武自神社(つむじじんじゃ)
ということになります。なお帆柱石は、現在消失しているそうです。
鰐淵神社の鎮座地の周りの3つの神社です。中世のお寺に紐づけられた神話と考える人は多いと思いますが、この3つの神社はどれも出雲国風土記の時代の神社だと考えられている古い神社(式内社でもあります。)です。
旅伏権現 都武自神社
旅伏権現こと都武自神社です。旅伏山(標高456 m)の頂上近くに鎮座しています。旅伏山は、出雲御埼山の一番東側に位置します。
旅伏山(たぶしさん )

『出雲国風土記』(733年)の神祇官社として、都牟自神社 1つ、不在神祇官社2つ載っていますが、そのうちの一社とされています。式内社の比定社でもあります。
都武自神社 島根県出雲市国富町 1

祭神は、風の神
ここの都武自神社の由緒によると、〝実録、仁寿元年(851)によれば「速票風別命」を擢んでて従五位を授くとあり〟
〝「都武自神社縁起」を見ると推古天皇20年(612)、此の山の嶺に勧請し、都武自と称した。そのわけは、神武天皇がわが国を「秋津虫国」とされ、そのつむしをとって社号としたとある。又、「旅伏」と云うのは、神武天皇東征に旅にふす臥して敵を討たれたからであるといふ。〟
※速票風別命(はやつむじわけのみこと)・・・速飄(はやち)は、疾風、迅風とも云われる風の神。 一説には風神である志那津比古の荒御魂とも。
ここの縁起と鰐淵寺の縁起を信じるならば、鰐淵寺の方が創立が古いことになります。『雲陽誌』には、祭神が事代主命と書かれています。
なお、出雲国 意宇郡にも、神名そのままの波夜都武自和気神社という式内社があります。(現在 松江市東出雲町の筑陽神社に合祀)島根郡の久良弥神社にも同名の式内社があります。(現在 松江市新庄町の久良弥神社に合祀)
どちらの神社も、中海の沿岸部です。
現代では、「つむじ風」という言葉がありますが、古代もそういう言葉はあったのでしょうか?
つむじ
『岩波古語辞典』(大野 晋・佐竹昭広・前田金五郎 編)
①【旋風・廻毛】《ツムはくるくる廻るさま。シは風、アラシ・ハヤチ・コチのシ・チと同じ》ぐるぐる廻って吹く風。旋風。「─かもい巻き渡ると」(万一九九)
万葉集の199番の歌にあるようですので、奈良時代には、旋風の意味に使われているようです。
なお、風の神を祀る神社が、鰐淵神社の近くにもう一社あります。地図上で見ると、韓竈神社のちょうど北側の沿岸部です。
大宮神社 島根県出雲市大社町鵜峠115
祭神 級長津彦神 級長津姫神 『神國島根』大宮神社の説明に出雲風土記延喜式記載あり

風の神は、航海の安全を祈るために重要な神であったようです。
旅伏山の帆筵石(ほむしろいし)
『雲陽誌』では、帆席石(はんせきいし)と書かれていましたが、帆筵石と同じ意味です。
むしろの帆と言う意味です。帆筵石は、都武自神社から山頂方面に向かう登山道とは逆方向(東南方向)の参道の途中に祀られています。(しめ縄が風で外れていました。)

白瀧権現 諏訪神社
鰐淵寺の駐車場から少し西方に登ったところに鎮座しているのでが、白瀧権現こと現在の諏訪神社です。
『雲陽誌』(1717年)には、鰐淵寺の三翁の一柱である白瀧権現のことと石のことが書かれています。
別所
諏訪明神 健御名方命なり、本社三尺に三尺五寸南向き、拜殿一間半に三間、祭礼十月廿七日なり、宮山高さ四十間あまりの岩壁あり、傍に高さ三十間周五丈ばかりの丸き立岩あり、世俗是を帆柱石という、
此石のほとりに本社あり、此立石を檣(かち)石ともいう、俚民伝て云鰐淵寺開山智春上人信濃国より来たまうとき、老翁三人迎に船にて出たまい、その後老翁三所へ飛去ぬ、一人は今の諏訪明神なり、彼船具を分ちたまう時當此明神は檣をとり給う、今の帆柱石なりという、
天正十二年造立の棟札あれども鎭座勧請詳ならす、或人の曰【風土記】に載る出雲郡出雲社是なりという、土人白瀧権現とも号す、
『雲陽誌』
諏訪神社 島根県出雲市別所町72

一般的に、出雲地方(島根県の東部)の諏訪神社は、中世から戦国時代にかけて、武将が信州の諏訪神社を武神として勧請したものと考えられています。勧請不明ながら、天正十二年造立とあります。1584年でちょうど戦国時代です。
なのに、『出雲国風土記』の出雲社と比定社とされているのは、諏訪神社が中世以降勧請されて上書きされた可能性もあるということです。それとも、もともと諏訪神=建御名方神を祀っていて出雲神社であった可能性もあります。
出雲神社は、論者が4社もありその比定は困難ですが、延喜式神明帳の記載順序から、諏訪神社を出雲社とする説が強いです。
諏訪神も風の神
奈良時代にはすでに、諏訪神は政府にも認められた有名な風の神でした。持統天皇の5年8月23日に、風の神である竜田風神(現 龍田大社)に加えて信濃の諏訪神に奉幣された記事があります。
天候不順という背景があり、台風の追討を恐れてのことに相違ないが、それならば畿内の竜田風神を祭れば、それで十分ではなかろうか。まったく異例の諏訪神奉斎は、諏訪神が国土中央の神、しかも風神として認められていたからにほかならない。
吉野裕子『陰陽五行と日本の民俗』(人文書院)
国譲り神話に、建御名方神と建御雷神が登場してきますが、見方を変えれば、風神と雷神(あるいは地震の神)の闘いの話にも見えます。最終的には、建御名方神が信濃の諏訪に逃れたことになっていますが、風がふいて去って行った話とも考えられます。しかし、負けて諏訪に逃げたというのは失礼という話でしかないです。
想像にすぎませんが、後から諏訪神が勧請されたのかもしれませんが、もともと信濃の風の神を祀っていたところに諏訪神が上書きされたのではないかとも思います。
帆柱石は消失
諏訪神社は、三翁が石となった帆柱石のほとりにありましたが、由緒記によると、山の開発の地滑りによって、昭和26年に、現在の鎮座地に移ってきたそうです。
宮山高さ五十メートルあまりの岸壁に有り。是を帆柱と言う此石のほとりに本社あり。江戸時代嘉永五年(一八五二)再建築の棟札有りしかし、山の開発地すべりにより昭和二十六年に現在地移転、今日に到る。
諏訪神社由緒記 抜粋
智尾権現 韓竈神社
韓竈神社 島根県出雲市唐川町408
社殿に到達するまでに、急な狭い石段を登ることと、約45センチの細い岩の割れ目をくぐり抜けならない気軽に参拝できない神社です。

都武自神社・・・速票風別命(はやつむじわけのみこと)という風の神
諏訪神社・・・信濃の風の神
3翁のうち2つの神社の神が、風の神とくれば、智尾権現である韓竈神社も風に関係する神なのではないかと考えが浮かびました。
スサノオノミコトが関係する朝鮮半島の釜だと、由緒や学者に一般的に流布された考えがあり、それに私も疑義を感じなかったのですが、「かま」の字そのものにも注目すると時代によって変化していることに気づきました。
出雲国風土記(733年) 韓銍社(からかまのやしろ)
⇩
延喜式神名帳(927年) 韓竈神社(からかまのかみのやしろ)
「かま」というのは同じ読みですが、銍(いわゆる鎌)⇒ 竈(かまど)への変化です。しかし、奈良時代の漢字は当て字の場合も多いので、その漢字の違いにどれだけ意味合いがあるのでしょう。
そう思いつつも、鎌から、風の鎮祭の神器である「薙鎌(ないがま、なぎがま)」がひらめきました。
薙鎌(ないがま、なぎがま)
諏訪信仰の鎌は、普通の鎌ではなく、風よけの御符として鳥形の鎌です。目のような円の穴、くちばし、背中のギザギザを伴うものが多いのです。
ナイガマ。信州諏訪の信仰に伴う古くからの式で、木に鎌を打込むものである。時として老木の幹から異形の刃物が現れることがあるのはこのためである。諏訪神社では春秋の遷座祭の行列の先に薙鎌をもつものが二人あり、六年一度の御柱祭のとき、山造りの役は、御柱用材に薙鎌を打込む式をする。諏訪信仰の及ぶところ、遠く鹿児島県肝属郡百引村でも、薙鎌とはいわぬが、唐鎌の神に対して旧八月二十八日に刃をつけぬ鎌四本を献じ、二本は社に献じ、境内のひとつぼの木に打ちつける。・・・後略
『綜合日本民俗語彙』巻三
文献上の初見は、「新宮造奉時行事并用物事。・・・略・・・奈岐鎌一柄」【皇太神宮儀式帳(804)】らしいです。ただ、これはと宮地鎮めに用いる器材の中のもので、諏訪信仰の形態のものではない可能性が高いのかもしれません。霧ヶ峰の旧御射山遺跡(中世に諏訪神社下社の狩猟神事が行われた祭祀遺跡)では、諏訪神社の神器「薙鎌」が出土しています。鎌倉時代には、諏訪信仰の薙鎌が確立していたようです。
諏訪信仰の薙鎌が中世以降の後代のことなのかもしれませんが、風封じと鎌が結びついたのかは、いつの時代か、全く持って不明です。
岩船
韓竈神社の岩船

しかし、『雲陽誌』(1717年)に記載してある岩船とは、また別のようです。『雲陽誌』の岩船は、「本社の上を屋根の如くさしかざして」とあります。入口横一尺五寸(45センチ)とありますから、今の韓竈神社の入り口の穴だと思われます。また、『雲陽誌』の鰐淵寺の記載のところでは、「智尾権現」となっているのが、ここでは「智那尾権現」に変わっています。どちらかが、間違いなのでしょう。
唐川
智那尾権現 素盞嗚命をまつる、本社四尺に六尺西向、拝殿二間に三間、祭祀三月三日九月十八日兩度なり、境内百間四方の山なり、麓よりのほること六十間はかり古木おおし、古老伝に云素盞嗚命が乗給ふ舟なりとて二間四方程の平石あり、是を岩舟といふ、此岩本社の上へ西方より屋根の如くさしかさしたり、故に、雨露もあたらす世俗屋方石といふ、入口横一尺五寸はかり、高さ八尺程の穴あり、奥の方二間はかり、社まて通路あり、岩舟のつつきに周二丈あまり高さ六間六間ほとの丸き立岩あり、是を帆柱石といふなり、
『雲陽誌』
中世 杵築大社(出雲大社)の祭神が、大国主命から 素盞嗚命に変わった理由として、通説では、杵築大社の別当寺であった鰐淵寺の影響となっています。天台宗系の寺では摩多羅神を祀りますが、なぜか鰐淵寺では、摩多羅神=素盞嗚命となってしまいました。摩多羅神は元は、この唐川にあったようです。(現在は、鰐淵寺の境内にあります。)
風の神 伊勢津彦命
伊佐我命=伊勢津彦命
「東国諸国造 伊勢津彦之裔」という系図があります。武蔵国造など関東の国造の系図です。下記は、中田憲信編『諸系譜』より関東の国造(伊勢津彦裔)の系図の神代の系図を抜粋したものです。(読み取れないところは□□□としました。)原本の系図全体が見たい方は、→ 国立国会図書館デジタルコレクション『諸系譜』27ページ
※出雲国風土記に八束水臣津野命の御子として「赤衾伊能意保須美比古佐和気能命」が登場しますが、天穂日命は、天照大御神の御子ですので、八束水臣津野命(意美豆努命)の御子だと、少し変な感じがしますが、元々古代豪族の合体系図だと思えば、良いのです。

関東の国造は、伊勢津彦之裔とあるとおり、伊勢津彦命を祖先としています。この系図では、天穂日命の3世孫に「伊佐我命」があります。その別名として、伊勢津彦命とあります。(出雲建子命とも)
そして、伊佐我命の注記のところに「出雲国出雲郡伊佐神社」とあります。
しかし、現在でも、あるいは式内社でも、伊佐神社はありません。どの神社を言っているかわかりませんが、式内社には似た名前の神社が3社あります。
① 阿須伎神社同社 神伊佐我神社 比定社 阿須伎神社に合祀されている
② 伊佐波神社 比定社 都我利神社に合祀されている
③ 伊佐賀神社 比定社 伊佐賀神社
出雲弁で、自分のことを「わー」と言います。そういう意味で言うと、我(われ)が波(わ)になったのかもしれません。
ちなみに伊勢国にも、伊佐和神社(三重県松阪市射和町1073)があります。
伊佐和は假字也○祭神伊佐波止美命、又伊勢津彦命、○射和村に在す、(考証、俚諺)今飯野郡に属す、
神社覈録(1870年)
都我利神社 島根県出雲市東林木町672
扁額に合祀された伊佐波神社が見える。(右から2番目)現在の祭神は、阿遅志貴高彦根命ですが、
ここの神社では、東国諸国造系図の親子(伊佐我命、津狡命)を祀っていることになります。

鎮座地ですが、①②は、鰐淵寺を御埼山の北麓とすると、反対側の南麓に位置します。③は、御埼山の南側の仏経山(『出雲国風土記』の神名火山)に連なる山の西麓に位置します。
都我利神社の場所は、鰐淵寺を開祖した智春上人が同じく開祖した万福寺(大寺薬師)のすぐ近くです。
都我利神社の位置
同社とはおそらく境内社だと思われますが、平安時代にはすでに重要視されなくなった神社なのかもしれません。上記の伊佐賀神社では、現在 『播磨国風土記』に登場する、阿菩大神(伊保大神)を祀っています。もしかすると、阿菩大神=伊勢津彦命なのかもしれません。仮にそうだとすると、鰐淵寺の真北に位置する意保美神社も、阿菩大神を過去に祀っていた可能性もあるのかもしれません。(なお、奈良時代では、読みが「おほみ」神社でありました。)
伊勢津彦命を風の神であることを記した伊勢国風土記逸文
『万葉集註釈』(1269年)に載っている『伊勢国風土記』の引用ですが、伊勢国の名前の由来を、伊勢津彦命の神名によるものと記述しています。しかし、伊勢津彦命を神武天皇の時代のかなり後代の神として書かれており、『東国諸国造系図』とは、全く書かれていません。
そして、国譲りの側の功労者である天津神である天夷鳥命とは、正反対の国津神として描いています。
神武天皇時代の平定されて、大風を吹かして、信濃の国に鎮まったように述べられています。
伊勢国号
…前略… 名を伊勢津彦という。天日別命が詰問する。「お前の国を天皇に奉れ。どうだ」。答えて言う。「私は、良い国をもとめてやって来てこの地を見つけ、住み続けて長いことになる。命令には従わない」。天日別命は兵を発してその神を殺そうとした。神は委縮してひれ伏して言う。「私の国はすべて天皇に奉ります。私は今後この地に住みません」。
天日別命がさらに詰問して言う。「お前がこの地を去る時、何か証拠を残せ」。神は畏まって言う。「私は、今夜、大風を吹かせて高潮を起こし、波に乗って東国に立ち去ります。この大風と高潮が、私の退去した証拠です」。天日別命は兵を準備して、約束の時を窺っていた。夜中に大風が四方から起こった。波が高く打ち上がり、波が太陽のように光り輝き、海も陸も国中が明るくなった。そうして神は波に乗り、東国に立ち去った。
昔からの言葉に「神風が吹く伊勢国は、常世からの波がうち寄せられる国なのだ」とあるのは、きっとこの事件に基づいているのであろう。天皇は、その後、伊勢津彦の神を、信濃国に住ませた、ともいう。
中村啓信監修・訳注『風土記 下』 角川ソフィア文庫
天日別命は伊勢国を帰順させ、天皇に帰還報告をした。天皇が、たいそう喜び、おっしゃった。「平定した国には、(天皇家に従う)良い国つ神がいた。その神の名を残し、伊勢と名付けよ」。…後略…
しかし、道祥『日本書記私見聞』(1426)では、『伊勢国風土記』の別の説が載っています。上記の記述では、伊勢津彦命が戦に負けて去っていたのですが、今度は逆に勝ったことが書かれています。また、ここには、『東国諸国造系図』の伊勢都彦命の別名が載っています。「出雲の神の御子」とありますが、「出雲の神」とは大国主命なのでしょうか?
伊勢・一説、石城
また次のようにいっている。伊勢といふ地名の由来は、伊賀の安志(あなし)の社に鎮座する出雲の神の御子神にあたる。出雲建子命(いづものたけこのみこと)─またの名を伊勢都彦命、またの名を天櫛玉命というが─この神が、昔、石で城を造ってこの地に(陣を)構えて占拠した。阿倍志彦の神、軍勢を揃えてやってきて(戦った)。(阿倍志彦は)勝つことが出来ず負け去った。そこで、(勝ってこの地を占拠した)神の名(伊勢津彦命)を地名とした。
中村啓信監修・訳注『風土記 下』 角川ソフィア文庫
伊和大神(大国主命)の御子 伊勢津彦命 『播磨国風土記』
『播磨国風土記』では、伊和大神の御子と述べられています。宗像神の奥津島姫との婚姻の記述や天日槍命との闘いで葦原志許乎命と2種類の表現があることから、伊和大神は、大国主命と言われています。
伊勢野と名づけた理由は、この野では人の家が建つたびに、平穏に暮らすことができなかった。さて、衣縫猪手(きぬぬいのいて)という漢人の刀良(とら)たちの祖がここに住もうとして、神社を山の麓に立てて、山の岑(みね)に鎮座する神である伊和大神の子伊勢都比古命と伊勢都比売命を敬い祭った。これより後、それぞれの家は安らかになって、やっと里となることができたので伊勢と名づけた。
中村啓信監修・訳注『風土記 上』 角川ソフィア文庫
東国諸国造系図や出雲国造系図では、天穂日命では3世孫ではあるけれど、『播磨国風土記』や『伊勢国風土記』では、大国主命の御子ということになります。
『出雲国風土記』記載神社に、伊波社(いわのやしろ)があります。(都我利神社境内社に比定)伊和大神の御子だから、伊佐我命あるいは、伊佐波命になったと思われます。もう一社、伊爾波社(いにはのやしろ)が、あり、縣神社境内社などが後継の神社だとされています。
どちらも、旅伏山の頂に鎮座する都武自神社の麓に位置するので、風の神伊勢津彦命を表象するものとして、都武自神を祀ったのではないでしょうか。
少しずつ更新・編集してまいります。