『出雲国風土記』(733年)の地名起原に古代豪族 物部氏の祖神が登場する。
その祖神は、饒速日命ではなく、経津主神(ふつぬしのかみ)である。(布都努志命とも言う。)
国譲り神話の稲佐の浜に登場する神の一柱だ。

 

その神は、東部の意宇郡(おうぐん)の二つの郷に登場する。

 

 

楯縫郷

 

〝楯縫(たてぬい)郷
郡家の東北三十二里一里一百八十歩の所にある。布都努志(ふつぬし)命が天石楯(あめのいわたて)を縫い直された。だから、楯縫という。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

嵩神社の天石楯 島根県安来市宇賀荘町473 

 

 

〝山国郷(やまくにごう)。郡家の東南三十二里二百三十歩の所にある。布都努志命が国をめぐりなさったとき、ここにおいでになっておっしゃられたことには、「この土地は絶えず【原文…止まなくに。】見ていたい。」とおっしゃった。だから山国という。この郷には正倉がある。〟(前掲書に同じ)

 

物部氏の祖神が登場するので、おそらく物部氏が分布していたのだろう。

 

楯縫(たてぬい)郷のところを読んで、『日本書紀』(720年)の持統天皇4年(690年)の物部麻呂の記事が思い浮かぶ。物部麻呂は後に石上麻呂と改める。

 

四年一月一日、物部麻呂は大楯をたて、神祇伯中臣大嶋朝臣(かんづかさのかみなかとみのあおおしまのあそん)は読みあげた。(宇治谷孟 『全現代語訳 日本書紀 下』)

 

武器では無く、持統天皇の即位儀礼のための祭祀用の楯である。
時代は下り、『延喜式』の大嘗祭に使用する神楯は、1丈2尺(368センチ)ある。大きな楯だ。そして、石上と榎井の両氏が楯と戟(槍)を立てると書かれている。

 

だから、物部氏=石上氏が楯と照応するものと考えられる。
そこで、楯縫郷の起原に物部氏の祖神が登場するのだと思う。

 

しかし、出雲国の中間どころの、昔平田市であった楯縫郡には物部氏とは直接関係ない杵築大社の創建話が書かれている。

 

 

楯縫郡の杵築大社創建話

 

〝楯縫と名づけるわけは、神魂(かみむすひ)命がおっしゃられたことには、「わたしの十分に足り整っている天日栖宮(あめのひすみや)の縦横の規模が、千尋(ちひろ)もある長い栲紲(たくなわ)を使い、桁梁(けたはり)を何回も何回もしっかり結び、たくさん結び下げて作ってあるのと同じように、この天御量(あめのみはかり)をもって、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の住む宮を造ってさしあげなさい。」とおっしゃられて、御子の天御鳥(あめのみとり)命を楯部として天から下しなさった。そのとき天御鳥命が天から退き下っていらして、大神の宮の御装束としての楯を造り始めなさった場所がここである。それで今にいたるまで楯や桙を造って神々に奉っている。だから楯縫という。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

どうしてここには、 布都努志命が登場しないのだろう。
ここに書かれているように、楯縫部(楯部)がここにあったのかかもしれないが、杵築大社と関係した楯縫部だったのだろうか。
物部氏に関係した楯縫部ではなかったろうか。

 

なぜならここには、出雲国で唯一 郡司を勤める物部臣がいる。

 

楯縫郡の郡司 
主帳 无位 物部臣
大領 外従七位下勲十二等 出雲臣
少領 外正六位下勲十二等 高善史

 

石上(いしがみ)神社 祭神 布都御魂命  島根県出雲市塩津町279

 

 

 

楯縫郡には、布都御魂神を祭る宇美神社や石上神社があり、物部氏のより濃厚な地域である。

 

『出雲国風土記』の起源話が、いったいどこまで古い伝承にもとづいているのか、私には疑わしい。

 

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