いつから大橋川と呼ばれているのか

 

大橋川というのは、中海と宍道湖をつないでいる全長約8キロの河川である。川ならば、どちらが川上で川下なのだろうか。一般的には、川とは山々の水源から支流が合わさって大きくなり、海に流れていくものである。だから、海に近い方を川下や河口という。
そういう意味では、日本海に接した中海に面した馬潟(まかた)の方を川下といい、宍道湖に面した白潟(しらかた)が川上なのかもしれない。

 

しかし、宍道湖から中海の境水道までほとんど水位差が無く、中海側から塩分を含んだ水は、宍道湖側に流入し、宍道湖側の塩分の少ない水は東に流れていくという複雑な流れで、気圧や潮の干満の影響も受ける。
一般の河川から比べると大変流れの悪いもので、これが大橋川の特徴とも言える。

 

川の前に橋の名前があるのはなぜ?

 

大橋川──、川の名前の前に橋の名前がある。おかしくないか。川の名前が先のはずだ。
しかし、大橋川に関してはおかしくはない。川の名前で呼ばれる前に、橋があったのだ。
というのも、大橋川という川と認識されるのは、かなり後の時代 江戸の終わりであった。それまでは、宍道湖の一部であって、それまでは、宍道湖の末次と白潟をつなぐ大きな橋があったのである。

 

その大橋はいつの時代までさかのぼれるか。
貞和7年(1351)2月、小境平五郎入道元智が、足利直冬軍に加わって白潟橋で合戦し、また宍道八幡までお供したという軍忠状の写しが存在する。
つまり、室町時代には、「白潟橋」がかかっていたのである。
中世の書物には、「白潟橋」「白潟橋姫大明神」(売布神社)は登場するが、「大橋」は登場しない。

 

ようやく「大橋」として登場ずるのは、『雲陽誌』(1717年)という書物である。しかし、河川の名前は出て来ない。「湖水」という表現である。

 

島根郡 松江城府
松江と名付け給ふ事は異朝に呉といふ国に松江といへる所あり此湖の中に鱸といふ魚蓴菜といふ
水草ありて名物なり此城下 宍道湖 の水中にも鱸魚蓴菜ありて名物なりて松江と名付け給ふといへり
湖上の上 島根意宇両郡の境に橋あり是を大橋とといへり雲州第一の長橋なり橋より西へ湖水七里はかり東は馬潟まで二里あまり なり

 

江戸の終わりから明治の始めのいつの頃、川として認識されたのかは定かではないが、明治14~16 年 (1881~ 83) 頃には、 「大橋川」という名称が初めて登場するに至る。

 

『出雲国風土記』時代の地形

 

朝酌の促戸

朝酌川河口付近 大橋川と一つになる。向こう岸は、石屋古墳のある東光台。

 

 

奈良時代に書かれた『出雲国風土記』(733年)の島根郡の記述である。(島根郡は、大橋川の北岸の郡)
「河川・池」の項目に書かれておらず、「海岸地形」の項目に書かれている。なお、出雲郡の斐伊川(出雲大川)は、河川・池の項目に書かれている。

 

南は入海(いりうみ)である。〔以下 西から東へと述べていく。〕

 

朝酌促戸(あさくみのせと)。

 

東に通道(かよいぢ)があり、西に平原(はら)がある。中央は渡し場である。ここは筌(うけ)を東西に設けている。春秋に出入りする大小さまざまな魚が時として筌のあたりに集まって、飛び跳ねて風を圧し水を突く勢いで、あるものは筌を破り、あるものは陸に跳ね上げられて千魚となって鳥に捕獲される。大小さまざまな魚で、浜辺は騒然とし、家々はにぎやかで、人々は四方から集まってきて、自然に廛(いちくら)ができる。〔ここから東に入って、大井浜に至るまでの間の南北二つの浜は、みな白魚(しらお)を捕り、水が深い。〕

 

朝酌渡(わたり)。広さは八十歩ほどである。国庁(こくちょう)から海辺に通う道である。(島根県古代文化センター編『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

国土地理院 地図 

 

現在の朝酌町、福富町、馬潟町、竹矢町、矢田町、東津田町などの川幅が狭くなっているところを「朝酌促戸」と言ったらしい。
『岩波古語辞典』(大野晋、佐竹昭広、前田金五郎 編)で「せと」を調べると、

〝せと【瀬戸・迫門】①海や川が陸や島や岸の間でせまくなっている所。多く通路とする。〟

とある。「瀬戸内海」の名称もそこからきたと思われる。

 

 

現在の「矢田の渡し」

 

ここに書かれている朝酌渡であるが、現在の矢田付近が比定されている。たいへん不思議なのは、現代にいたっても「矢田の渡し」がある。小生、若い頃(40年前だが)自動車ごと船に乗せてもらい、大橋川を渡ったことがある。
くにびき大橋(1881年)、中海大橋(1989年)、縁結び大橋(だんだん道路、2012年)ができて渡し船としては需要が激減したが、いまもなお運行を行なっている。詳しくは → 観光遊覧船 矢田の渡し

 

ホーランエンヤ

 

2019年のホーランエンヤ   中心に松江城山稲荷神社の神霊をのせた船が見える。

 

ホーランエンヤは、大橋川を舞台に行われる「三大船神事」の一つである。(ちなみに他の二つは、大阪市の大阪天満宮の『天神祭』、広島県厳島神社の『管絃祭』)
この唄声のホーランエンヤは、漢字では「宝来遠弥」あるいは「豊来栄弥」の字を当てるそうだが、「蓬莱塩爺」が掛け声の起原との説もある。
〝 松江城山稲荷神社式年神幸祭 〟が、正式名称であり、松江城山稲荷神社の御神霊を船に乗せて阿太加夜神社を往復し、五穀豊穣を祈願する祭礼である。当初は10年周期で行われ、途中で12年周期に変わったが、令和元年(2019年)には10年ぶりに開催された。
2019年は、渡御祭 5月18日(土)、中日祭 5月22日(水) 還御祭 5月26日(日)の日程。

 

ホーランエンヤの起源

このホーランエンヤの起源は、慶安元年(1648年)で、徳川三代将軍家光の時代である。,松平直政が松江藩主となって十年目が天候不
順であったため,稲荷神社の社司も兼ねていた阿太加夜神社神職松岡兵庫に本務社である神社に、五穀豊饒の祈禧を行なわせたことが始まりとされている。

 

当初は大船団の櫂伝馬船は無かったようである。
文化5年(1808)の神幸祭の際に、風雨が激しくなって、御神霊を載せた船が危ない状態になった時、馬潟村の漁師が助けて芦高神社(阿太加夜神社)まで無事送り届けた。そこから馬潟村の櫂伝馬船が神輿船の曳き船を務めるようになり、後に矢田、大井、福富、大海崎の櫂伝馬船が加わるようになったそうである。

 

馬潟の櫂伝馬船 (2019年ホーランエンヤ)

 

なぜ、阿太加夜神社なのか。

様々な伝承はあるが、城山稲荷神社の神職を兼ねていたというのも理由の一つであろう。だが、それだけでは定着する物ではない。
大橋川の始まりから出発して、大橋川が終わってすぐの場所で、祭祀を行なうには適地であったのが最大の要因だったのだろう。

 

また阿太加夜神社のあるところは、中世「アタカイノ津」という港湾があった所で、幕府方の守護所や安国寺が作られた場所でもある、また奈良時代には国庁の玄関先ともいうべき場所である。
つまり、古代から港として、重要な場所であったということができる。

 

ホーランエンヤの祭りは古代から近世にかけて、いかに大橋川の水上交通(内陸水運)が重要であったかということを示している。

 

記事が面白いと思ったら、応援のクリックのご協力をお願いします。


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

古代史ランキング

 

 このエントリーをはてなブックマークに追加