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出雲大社別火氏の謎(5) 大国主命の末裔

杵築(出雲)大社社家順名書

近世における出雲大社の上官社家は、向家文書の『社家順名書』を見る限りでは、北島・千家の両国造家 合わせて17人であり、北島方8人+千家方8人+別火家だったと思える。

それ以前はどうだったかと云うと、『向家文書』(現代語訳)によると、

一、上古より(出雲)国造(54代)孝時の世に至るまで、上官は7人いた。一三四三(康永2)年に国造が(北島と千家に)別れたとき、上官は3人ずつ両国造家に寄属した。

一人は両家に属する上官(別火家)である。…(別々に神事を行うよう変わったために)両国造家は互いに、3人の欠員をおぎなった。

以前からの規則に準じて、各国造家は上官7人で神事を務めさせられたから、新たに正式でない(影の)上官ができた。

斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料より ※ 太字強調は私)

上官は7人だったという。なぜに7人というか、本殿の七つの雲と社家数とも、何か関係があるのかしら。そう考えると、神魂神社の九つの雲はいったいなんなのだろうか。

この古(いにしえ)の7人の上官社家はどこか?

今に至るまで、古上官の向や、森脇、平岡、東、佐草、赤塚の緒家と影上官が両国造に、与えられた。

斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料

また、「出雲国造家文書」の『国造出雲政孝注記』(1228年)に上官座配の次第が載っており、当時は一列に並ぶ場合、国造・権検校・向・森脇・嶋・月貫・阿吾・佐草という順であったらしい。

『杵築旧懐談』(大正十年 赤山登翁著)には、「古上官と云うは、千家方に平岡・月禾(東上官とも云ふ)・島、北島方にて向・森脇・佐草なり。」と、ある。

向家→富家など名前が変わったりするので、実際どの家がどれに対象とするかよくわからぬが、古上官は、向・森脇・佐草・平岡・東・島に別火家を加えた7家だったのだろうか?

ある中世史の本を読むと、ほとんど出雲国造家の分家みたいに書かれているがどうも違うようである。(系図を見ると国造家とは親戚関係ではあった。)

例えば、佐草家であるが、『懐橘談』(黒沢石斎著 江戸時代初期の地誌)に、

脚摩乳・手摩乳を吾児の宮首となし給へば、今の国造は其苗裔にやと尋侍れば、左は候はず、八重垣の神主佐草氏こそ脚摩乳の後にて候へ、

黒沢石斎著『懐橘談』

とあり、天穂日命ではなく、足名椎命(『古事記』表記)の子孫ということらしい。

出雲大社 本殿

明治元年の社中記事のなかに別火家の出自が書かれていた。

上官   別火千秋吉満(両国造の仲人)

この仲人上官の家伝で、当家は櫛八島士奴美ノ神の孫、大国主(大己貴職)の孫(神門臣家)出身と云う。

一説には、十千根命(秋上家)の子孫とも。

大社御飯供を奉献する別火職である。7月4日(国造身逃げ神事)には、一子相伝の神秘(大国主御神霊の外出)神事を独行する。

斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料 ※ 太字強調は私

さて、「櫛八島士奴美ノ神の孫」がだれなのかである。

富家伝承の大名持(主王)の系図だが、「大名持」は、固有名詞ではなく、王の役職名だということだ。

※ aは、向家(富家)、bは、神門臣家。

1菅之八耳[八箇耳](a)―八島士之身[八島篠](b)―3兄八島士之身[八嶋手](a)―布葉之文字巧為(b)-深渕之水遣花(a)―臣津野(八束水臣津野命)(b)―天之冬衣(a)―八千矛大国主)(b)ー鳥鳴海(事代主命長男)(a)―10国押富(a)ー11速瓮之建沢谷地之身(b)ー12瓮主彦(b)ー13田干岸円味(a)―14身櫓浪(b)ー15布惜富取成身(a)ー16簸張大科戸箕(a)ー17遠津山崎帯(b)―(野見宿祢)(a)─

斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』大元出版 巻末資料の抜粋   ※ 太字強調は私

親子関係を示した系図ではないので、孫というのがだれのことを指すかわからないが、6代目オオナムチ臣津野(八束水臣津野命)と、11代目オオナムチ速瓮建沢谷地之身(はやみかのたけさわやぢ)の所なんだろうか、そんな気がする。

『出雲国風土記』の記事(「速」と「瓮」である)、と八束水臣津野命を祖とする出雲臣の系図からの勝手な想像である。

ただ、出雲臣の系図では櫛八玉命は、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命の孫となっていた。(→ 出雲大社別火氏の謎(3) 天甕津日女命(あめのみかつひめ)

出雲大社における別火家の役割

別火家は、北島氏・千家氏に両属の「別火職」であった。

大社神主の資格を受けた国造は、家族とは別れて、神火で作ったご飯と料理を食べることになっており、別火職は火起こしに使う道具を管理する職務だった。

それとは別に、出雲大社別火家(財氏)は、出雲大社本殿の鍵を管理する役目もあった。しかし、その固有の役目はこれだけではなかった。

県長元年(一二四九)六月杵築大社造営所注進状の抜粋である。杵築大社遷宮の儀式の様子が書かれている。

一、目代兼大行事源右衛門(入道宝蓮)并びに在庁書生御祓戸に着座。その時、別火散位財吉末以下の神人等、御解除の具持ちて参向す。次に別火解除申して御仮殿に帰参す。

その後、延(筵)道の布薦、正殿と仮殿の間に敷く。次に目代・在庁官人、仮殿の御前に列座せしむ。その時御馬并びに御神宝物、各々次第に賜う。次ぎに国造・目代・在庁官人、襷襅を着す。

その時、国造出雲義孝、大床において祝申す。仍って、参集の輩、各々御幣を賜る。次に別火吉末、大奴佐を以って延道を清め行く。次に御馬を引かる。

次ぎに新造の御神宝物、目代・在庁官人、これを賜りて持ち奉る。次に御輿御行。次ぎに古御神宝物、上官神人賜りてこれを持ち奉る。

『杵築大社造営所注進状』県長元年(一二四九)

以下、長谷川博著 『戦国大名尼子氏の研究』(吉川弘文館発行)からの別火氏の解説。

その機能とは、遷宮の際神体の通る道を清める「延道役」と、本殿や宝殿の鍵の管理・開閉を独占的に担う「鎰役」である。 

県長元年(一二四九)六月杵築大社造営所注進状によれば、宝治二年十月二十七日の杵築大社遷宮に際し「別火吉末以大奴佐於延道行」くとあり、戦国期の資料に散見する「延道」「塩道」「御幣縁道」とは、仮殿から正殿に至る道を大幣(=「大奴佐」)を以って祓い清める役目であったことが知られる。

長谷川博著 『戦国大名尼子氏の研究』

戦国期の資料からは、別火氏がこれら以外にも広範な独自な機能を果たしたことが知られ、遷宮の際の「杵役」「御鉾」「御弓」のほか、三月会「二番饗」の「御供取次」役を務めている。

別火氏が古くから三月会について主導的役割を担っていたことは、かつての在国司朝山家伝来の「きうき(旧記)」において、すでに別火氏が「解除饗」の「奉行」を務めると記されていることから明らかである。

長谷川博著 『戦国大名尼子氏の研究』

明治元年の社家順名書に確認できる上官・別火家は、今はもう出雲大社にいない。大国主命の末裔が、出雲大社の社家にいてはまずかったのか?

明治時代の神道の国家的再編とは、いったい何であったのだろうか。

◆ 参考文献 ◆

  • 斎木雲州著 『出雲と蘇我王国』 (大元出版)
  • 長谷川博著 『戦国大名尼子氏の研究』(吉川弘文館発行)
  • 島根県古代文化センター 『出雲大社文書 ―中世杵築大社の造営・祭祀・所領―』

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