日野川流域
日野川(ひのがわ)
樂樂福神社(ささふくじんじゃ)の分布を見ると、日野川流域に集中していることがわかります。
日野川下流域には、古来より集落が栄え、弥生時代を通じて鉄器がよく出土していた地域です。
古代から近世までずっと、砂鉄からの製鉄が盛んな所でした。
樂樂福神社の分布
ささふくとは?
一説によれば、「ささふく」とは、
砂鉄(ささ)をたたら吹きで製鉄すること
を意味するようです。
伯耆国(鳥取県西部)では、樂樂福 (ささふく)大明神として、孝霊天皇一族を祭っています。
孝霊天皇の崩御地 (旧 溝口町の樂樂福神社 )
江戸時代は、「口日野大社」と呼ばれていた樂樂福神社 鳥取県西伯郡伯耆町宮原225
江戸時代中期の 『伯耆民諺記』(ほうきみんげんき)には、ここの神社はどう書かれているでしょうか?
樂々福大明神と号する社の日野郡に建つ處都て四ヶ所各々孝霊天皇を祭る神社なり
但し印賀村の樂々福の社は彼天皇の姫宮福姫を祭る神社なりと傳来す
當社を口日野大社と傳ふ
上古孝霊天皇の御宇當國に西端に悪鬼あって此地に御座をなされし鎮政なりといふ
即ち此所にして崩御ありて其神跡と言て 社の後に方八間の岩窟あり
現在は、岩窟は見られませんが、孝霊天皇のお墓との伝承の古墳があります。
樂樂福神社の境内の古墳
昔説明板がありました。その一部です。
この古墳は現在より西にのびていましたが伯備線鉄道開通(大正九年)で現存する大きさになりました。
まだその当時は樂樂福神社の小高い森は日野川添いまであり神社の境内地を伯備線が通っているような感じでしたが181号線の開通により神社の西の小高い森はすべてなくなり現在のかたちになりました。
古墳は前方後円墳又は円墳とも言われています。
神社の姿は、時代と共に変わっていきます。
かつては小高い大きな森だったものが、今は小さな平地になっています。
『樂樂福神社縁起』
堂野前彰子 論文 『鉄をめぐる古代交易の様相楽々福神社鬼伝承. を中心に』(2012年)に、ここの(伯耆町)樂樂福神社の縁起が載っていました。
伯耆を巡幸していた折、孝霊天皇はこの地に住む悪鬼の兄弟が眷族を率い人々を悩ませていることを知り、鬼退治をしようとして南にある高い山に登った。
山頂で鬼退治の計略を考えていると里人が笹苞団子を献上し、その団子を食べた軍勢の士気はあがった。そこでその団子三つを並べて弟の鬼である乙牛蟹をおびき出し、団子を食べているところを射殺した。
孝霊天皇が陣取ったとの言い伝えられている 笹苞山
それに因んでその山を笹苞山と呼ぶようになり、鬼を射殺した大矢口命は神主蘆立家の始祖であるという。
このように弟の鬼は退治することができたのだが、兄の鬼を退治することがなかなか出来ない。
日野町の樂樂福神社の社家・入澤家と同様、物部氏の原型の穂積氏の末裔が奉祭氏族ということです。
大矢口命とは?
物部氏(穂積臣)の系譜
饒速日命─宇摩志麻遅命─彦湯支命─出石心大臣命─大矢口宿禰命
先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)の記載
先代旧事本紀巻第五・天孫本紀
同じく四世の子孫・大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)。
穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖で、出石心命(いずしこころのみこと)の子である。
弟に、大矢口宿禰命(おおやくちのすくね)。
この命は、盧戸宮(いおどみや)で天下を治めた天皇(孝霊天皇)の御世に、共に宿禰となり、大神を祀った。
坂戸(さかと)の由良都姫(ゆらつひめ)を妻として、四人の子を生んだ。
宮原の樂樂福神社のことを「口日野大社」と呼ばれていましたが、
この「口」は、大水口宿禰命と大矢口宿禰命と何か関係があるのでしょうか。
坂戸の由良都姫は、天目一箇命(鍛冶の神と云われる)を祖とする系図などに登場します。
詳しくは国立国会デジタルコレクションの資料 中田憲信「天津彦根命 裔)」『諸系譜』第一冊 29ページ
兵庫県豊岡市城崎町楽々浦(ささうら)には、坂戸天物部命の裔・佐々宇良毘古命を祭る三嶋神社があるというから、
もしや、「樂樂福」の「樂樂」(ささ)は、大矢口命・坂戸由良都姫夫婦に関係がある名称なのでしょうか。
また、鳥取県北栄町に由良の地名がありますが、何か関係があるのでしょうか。
ある夜天皇の夢の中に天津神天皇が現れ、「笹の葉を刈って待っていると吹いてきた風が鬼を降参させる」という託宣を告げた。
笹を刈って待つこと三日、大風が吹き笹の葉、が鬼の住む山へと兵を誘った。兵が笹の葉を抱え持って攻め入ると、鬼たちは笹の葉に纏わりつかれ為す術もない。
さらに春風に乾いた笹葉が燃えたので鬼たちは散り散りに逃げ惑い、ここに至つて大牛蟹は降参した。
大牛蟹たち鬼が住んでいたと言い伝えられている 鬼住山
これからは北辺を守って天皇に仕えると申し出たので、天皇はそれを聞き入れ大牛蟹を許した。
人々は多いに喜び、百二十三歳でこの地に崩御した天皇の遺徳を偲んで御陵脇に笹葺きの社を建て、「鬼伏大神」として祀ったという。