加藤義成氏の説

 

 

これは加藤義成氏の説である。

 

「延喜式によれば、この売布神社は玉作湯神社と来待神社との間にあって、今の鏡あたりあったのをその辺から移されたものであろう。」(『出雲国風土記参究』)上記の地図の1の所が、鏡あたりである。

 

延喜式の記載が、「玉作湯神社 同社坐韓国伊太氐神社 売布神社 来待神社」となっているため、来待と玉作湯神社のだいたいの中間の場所として、鏡あたりと書いたのかもしれない。

 

しかし、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)には、売布神社とのつながりがある伝承が多いことがわかる。もしかしたら、加藤氏はそういう伝承を知っていたのかもしれない。

 

『出雲国風土記』 拝志郷

拝志郷

 林43号墳 出雲地方最古の横穴式石室をもつ。林古墳群は、宍道湖南岸最大である。

 

鏡あたりは、奈良の出雲国風土記(733年)の時代、意宇郡拝志郷だった。

〝拝志郷(はやしごう)。郡家の正西二十一里二百十歩の所にある。所造天下大神命が、越の八口を平定しようとお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのときおっしゃられたことには、「わたしの御心を引き立てるものである。」とおっしゃった。だから林という。〔神亀三年に字を拝志と改めた。〕この郷には正倉がある。〟 (島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

出雲国風土記では、大国主命の「越の八口平定の話」と、木々の「林」「御心を引き立てる=はやす(栄やす)」の話がミックスされているが、実際のところ古代豪族の林氏の話であると思われる。

 

『出雲国風土記』 意宇郡の群司に「主政外少初位上勲十二等 林臣 」とあり、林氏の跡は意宇郡に確かに存在した。

 

それと同時に、ここから越の八口に出発したという話だから、奈良時代にはここに港があったのだろうと考えられる。

 

紀氏の系統 林氏

さて、その林氏の系譜だが、たとえば『姓氏録』に見られる皇別の林氏である。蘇我氏などのような紀氏の一族であり、古代官僚の名門だ。

 

左京  皇別 林朝臣 朝臣 石川朝臣同祖武内宿祢之後也

 

河内国 皇別 林朝臣 朝臣 武内宿祢之後也

 

『和名類聚抄』(平安中期)で同様な「はやしのごう」がどれくらいあるか、調べてみた。漢字は当て字なので、違う字もあるが、「はやし」ないし「はいし」と読ませるものをあげた。(抜けがあるかもしれない。)
かなりの数である。林氏は全国に分布し、有力な氏族であったと思われる。『出雲国風土記』に描かれるいわゆる越の国(黄色マーカー)にも「拝師郷」はあった。

 

 

加賀国 石川郡拝師郷
越中国 礪波郡拝師郷
丹波国 天田郡拝師郷、何鹿郡拝師郷
丹後国 与謝郡拝師郷
備中国 浅口郡林郷、小田郡拝慈郷、英賀郡林郷
山城国 紀伊郡拝志郷、久世郡拝志郷
河内国 志紀郡拝志郷
尾張国 中島郡拝師郷
常陸国 茨城郡拝師郷
阿波国 阿波郡拝師郷
讃岐国 山田郡拝師郷
伊予國 越智郡拝志郷、浮穴郡拝志郷

 

膳氏が国造家であった若狭国のように北陸道の諸国は、孝元天皇の御子ー大彦命の末裔、その子孫の武内宿祢の末裔が国造家を務めた氏族が多い国々だった。

 

ここ拝志郷は、その北陸道と関係が強い地域だったのかもしれない。

 

 

その鏡地区であるが、松江から西に車を走らせると、「宍道湖ふれあいパーク」(鳥ヶ崎)を右手に見てすぐの場所だった。下記の写真で言うと遠くにガソリンスタンドの赤いところが見えるが、そこから南に(山の方向に)向かった地域である。

 

鏡地区の前の海 
宍道湖ふれあいパークの西側から撮影する。宍道湖ふれあいパークの近くに現在でも船着き場があった。

 

 

なぜに「鏡地区」と言うのか、『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)によると、〝「須勢理媛」が夫の「大国主命」が「越の八口」を平定して帰るのを此地に出迎え、小川の水を鏡として身繕いをした場所として「向鏡」(むこかがみ)と呼んだ。少し東の橋のたもとで待ったが日が暮れた。柳井地区の「待ち暮れ橋」(日暮れ橋)と伝承する。〟となっている。

 

ガソリンスタンド横の向鏡橋

 

ここの「鏡地区」と「柳井地区」の間が、ちょうど旧・宍道町と旧・玉湯町の境界線だった。「向鏡」の場所だが、海岸沿いの鏡地区の東側のところだ。『きまち書留帳』には、町が違うので「柳井地区」のことはほとんど書かれていないが、「柳井地区」も含めた伝承地だったのかもしれない。

 

グーグルアースの地図

 

鏡地区の伝承

 

さて、その売布神社の伝承である。『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)の抜粋だが、

 

1)〝玉神社がそうである。江戸中期の「雲陽誌」に記してある。「鏡神社」のことである。「櫛明玉命」を祭神とする。御神体はない。本来は「玉」であったらしい。「瑪瑙の玉」だったらしい。近世末頃に盗難にあったらしい。地区の古老は次のように語る。「いま御神体は八寸ほどの鏡だが、本殿の床に切れ目を入れて「神玉」を盗んだ。昭和60年頃まで床の「切れ目跡」は地区の数人が確認した。松江の古物商に持ちこまれた「玉」に「キズ」があり売れなかった。盗人は神罰をおそれ、「売布神社」に奉納した。」という。〟

 

鏡神社 島根県松江市 宍道町東来待332番地

 

2)〝「鏡神社の使」は「兎」であった。松江から来た「籠かき」が、畑に遊ぶ「白兎」を捕らえて帰ったが、奇異のことが続出するので、そして「兎は鏡神社の使」と聞き、急ぎ売布神社に奉納した。〟

 

3)〝和多見の商人が、お宮の姫さんを、さらって帰ったのは「三月三日」の雛の節句の日のことだった。〟※ 和多見は、現在の売布神社がある地域名。

 

4)〝「売布神社の御輿」は「鏡の者」がかつがんと遷宮にならんと和多見の古老は伝えた。〟

 

5)鏡神社の「宮司家遠藤家文書」によれば、〝元禄十一年(一六九八)の鏡神社棟札に「両社一宇」とある。〟〝「雲陽来待山王記録」では「相殿二伊綱権現ノ神体アリ、此神ハ元来下ノ谷二有シ由申傳ル、祭礼三月三日」と記されている。「遠藤氏」は「伊綱社」は「売布神社」の元宮の「口伝」ありとする。〟

 

 

以上は、鏡地区と売布神社のつながりを示す伝承である。それで、売布神社の元宮がどこだったか、例えば「向鏡」であったりと、『きまち書留帳』には、様々な説が、書かれていた。

 

 

おそらく鎌倉時代には松江の円城山に移動していたと考えられるので、はるか昔の話である。どこにあったのかわからなくとも不思議はない。ただ、古代には拝師郷に大きな港があり、重要な港の場所が移って行き、それに伴い、売布神社も東へと移って行ったのではないかと想像する。

 

 

 

 

参考文献 
『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)

 

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