鬼神神社から横田の町の中へ行ったところに稲田姫の生誕の伝承地があります。
横田高校から、すぐの場所で、稲田神社に行く道の途中にまず「笹宮」が見えます。

 

 

笹宮

 

 

笹宮の前の説明板です。

竹べラから萌芽した笹宮
 テナヅチが産湯の池のほとりでイナタヒメを産みおとした時、アシナヅチは竹のヘラで臍(へそ)の緒(お)を切りました。
そして、この竹べラを逆さに挿しておいたところ、そこから萌芽して繁茂したと伝えています。以来、この笹をご神体として祭るようになりました。竹のヘラで臍の緒を切るのは、テナヅチ、アシナヅチがはじまりといわれています。その後、この笹は安産のお守りとして妊婦に配られ大切にされたそうですが、現在はその様な風習はなくなってしまいました。イナタヒメを産みおとし、産湯として使ったとする「産湯の池」も地元の人々によって大切にされています。

 

昔、いつの昔かわかりませんが、へその緒を竹のヘラで切ったそうです。
ちなみに、稲田姫神話に出てくる、古代(弥生時代末期)の箸(はし)ですが、古代のものは2本ではなく、1本の細い竹をピンセットのように曲げたものだそうです。

 

近くに稲田姫が産湯を使ったところと、稲田神社の元宮があったところがあるので行ってみました。

 

稲田神社の元宮

 

 

鳥居が設置されています。
小さな祠(ほこら)だったのですね。
古い神社の元宮は、山そのものであったり、石であったり木であったりします。

 

神社が立派な社伝を持つに至ったのは、仏教のお寺が造られてからという説が一般的ですが、本当にそうかわかりません。

 

稲田姫の産湯の池

 

その鳥居の近くに約2メートルの池があります。
稲田姫が生まれた時に、産湯に使った池だと云います。産「湯」と言いますが、古代には冷たい水だったのでしょうか。
古代の出産はどうだったのか、調べようとするものの、なかなかそういう本がありません。

 

 

天満宮の神主だった足立隼人久重が記した古文書(文政7年─1824年)には、稲田姫伝説とここの池のことも書かれています。「文政5年(1822年)夢の知らせで三宝が出たので、そこに玉垣、灯篭などをつくって、稲田信仰を行ないました。」と、あるそうです。

 

そのような記述に合わせるような、口碑伝承がいくつかあるそうです。
そこだけ、ピックアップすると、江戸時代の終わりに、稲田姫信仰の場所が創作されたように思えるのですが、近くの稲田神社の棟札の古いものは元禄15年(1702)なので、そこの池の信仰よりもはるかに昔、稲田神社は存在したことになります。

 

この池の近くが稲田神社の元宮ということになっていますが、案外、笹宮のところだったか、別の場所だったのかもしれません。

 

稲田姫を祀る神社

立派な大鳥居です。

 

 

本殿も立派です。
稲田神社 島根県仁多郡奥出雲町稲原2128番地1

 

一番感動したのは、稲田神社の周りの稲田が青々として美しかったことです。

 

稲田姫伝説の解釈

 

さて、稲田姫とスサノオノミコトの神話は、いろいろな学者にさまざまな解釈がされていますが、私は吉野裕子氏の解説が好きです。

 

"1 手足がなく、自ら山の神の子と名乗る手名椎・足名椎の神々は確実に蛇である。蛇は鼠の天敵故、これらの神々は稲田の守護神となって当然であるが、その通り、この神々はスサノオノ命が奇稲田姫を迎えて新居を設ける段になると、喚ばれて、「稲田宮主須賀八耳神」となる。それは要するに稲の神・穀倉の神・穀霊ということであって、そのシンボルは一本足のカカシ・杓子となる。

 

2 奇稲田姫は本来、八俣遠呂智に仕える蛇巫のはずである。そのシンボルは櫛と箸。スサノオノ命は後述するように川に流れる箸を頼りに川をさかのぼり、奇稲田姫を櫛に執りなして髪に挿し、大蛇退治に成功する。

 

3 八俣遠呂智はその名称からも山そのものであり、同時に巨大な蛇であって、その尾から顕現した霊剣、草薙剣は、ヲロチ自身のシンボルであると同時に、皇位のシンボルでもある。ということはヤマタノヲロチは祖霊中の祖霊なのである。"
         ( 吉野裕子著『山の神』易・五行と日本の原始蛇信仰』 人文書院)

 

参考文献 『奥出雲町の神話と口碑伝承』 奥出雲町文化協会編  奥出雲町地域活性化実行委員会

 

 

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